自称批評家の住処

批評家(自称)です。

’お客様’へのおもてなし精神極まれり『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) -Beginning-』感想・批評



 

はじめに

 

先日、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) -Beginning-』を観て、色々と考えさせられることがあったので批評したいと思う。

まず初めにに点数と軽い感想を示しておくと、

点数は、50点。

つまり、あまり面白くなかった。そう捉えて頂いて構いません。

というか面白い・面白くないという作品の質よりもこのような作品がSNSを中心に考察厨やエヴァンゲリオンオタク、ガンダムオタクを巻き込み、一大ムーブメント化している様を見て、「この国のエンターテインメント作品。特にアニメーション。大丈夫か?」と不安を通り越して失笑しました。

では、これからその理由を語りたいと思いますが、以後の文章は、現在進行形でわっしょいわっしょいやってるヱヴァオタクやガンダムオタク或いは庵野秀明信者達には耳の痛い内容になると思いますので自分の好きな作品をこき下ろされて傷つきたくない方は、ブラウザバックを推奨します。

忠告しましたので、ガンガン語っていきましょう。

現実に負けた虚構

上記の記事は、批評家 宇野常寛氏による『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の中身の批評というよりは、受容のされかたについて論じられた文章になりますが、本作、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) -Beginning-』にも通じる点が多いと思いますので、少し引用させて頂こうと思います。

私たちは、虚構の中の他人の物語に感情移入するよりも、現実の中での自らの言動に承認を与えられる快楽の側に、その関心を移しはじめている。作品を株券のように扱い、「みんな」が支持しているものを自分も支持することで一体感を味わうゲームに、作品を鑑賞することそのものよりも大きな快楽を感じている。あるいは、表現されたものの政治的に正しくない側面を指摘し、タイムラインでその意識の高さを誇る行為のもたらす充実感に酔いしれている。作品を鑑賞する行為(受信)がそれを用いて承認を獲得する行為(発信)に圧倒されつつある。

「現実優位の時代」における「虚構の価値」とは—宇野常寛2020年代の想像力』より

氏の指摘は仰る通りで、現在進行形で本作の考察記事や感想記事がインターネット上に日々、量産されているわけですが、批評を書くにあたり私も少し中を覗いてみたところやれシャアがどうだのやれニュータイプがどうだの物語の内側の設定ばかり考察して純粋な虚構の物語としての質はどうだったのかの話が一切ないようで「制作者側の狙い通りに釣られているのにそれに気づかずお気楽な人達だなぁ」と。思いました。

具体的に言いますと、

まず、ガンダムの皮でエヴァンゲリオンを作る。

これだけで、ガンダムオタクやエヴァンゲリオンオタク或いは庵野信者は釣れる。

次に、謎や伏線を強調する物語にすることで考察厨への餌を提供し、考察記事や考察動画を作って拡散してもらうことで実質、タダの宣伝を勝手にやってくれる。且つ、考察厨達も釣れる。

また、IFストーリーを前半に挟むことで庵野秀明も老後の楽しみとして、ガンダムを作ってハッピー。機動戦士ガンダムの第一話をオマージュ的に描き、「あなた達の好きなガンダムお借りします。すいませんね。」とご丁寧に挨拶回りをして、古のガンダムオタク達にも配慮する。そして釣れる。

最後に、SNS上にネタバレ感想有りの場所を設置することで、結束が強まり、それを羨ましく思う、まだ本作を観ていない人も釣れる。

なんと、’お客様’へのおもてなしが行き届いた素晴らしい作品なのでしょう。

8888(パチパチパチパチ)。

は?

これら全部、氏が仰っている。

人間はそれがどれほど希少でも他人の物語を観るより、それがどれほど凡庸でも自分の物語を語るほうが好きな生き物だ。そして情報技術は誰でも簡単に自分の物語を語ることを可能にした。人類は「自分の物語」を語り、発信する快楽を覚えてしまった。もはや、後戻りはできない。そしてこの「他人の物語」から「自分の物語」への移行は虚構の現実に対する相対的な敗北を意味している。私たちは、虚構の中の他人の物語に感情移入するよりも、現実の中での自らの言動に承認を与えられる快楽の側に、その関心を移しはじめている。作品を株券のように扱い、「みんな」が支持しているものを自分も支持することで一体感を味わうゲームに、作品を鑑賞することそのものよりも大きな快楽を感じている。あるいは、表現されたものの政治的に正しくない側面を指摘し、タイムラインでその意識の高さを誇る行為のもたらす充実感に酔いしれている。作品を鑑賞する行為(受信)がそれを用いて承認を獲得する行為(発信)に圧倒されつつある。

「現実優位の時代」における「虚構の価値」とは—宇野常寛2020年代の想像力』より


この問題そのものですよね? 

どこに虚構への言及があるんだ?

シャアだのニュータイプだの他のガンダムシリーズにも頻繁に登場する分かりやすい記号を取り出して、深読みするという考察の裏には「承認欲求を満たしたい」という欲望或いは、考察記事や考察動画を欲する観客と自身が「同じ価値観を持っていることを確かめたい」という欲望が見え隠れしているように思う。

これらは、一見、虚構の物語に言及し、作品の質を評価しているように見えて、実のところ作品を利用して、個人的な欲望を満たしているに過ぎない。

本作に限った話ではないが、近年のエンターテインメント作品におけるSNSを利用したソーシャル(世間的)な評価で作品そのものの質を埋め合わせようとする傾向は、目に余る。

勿論、そのことについて一切、疑問を感じないどころかいいように乗せられて宣伝要員になっている観客の態度も問題だが、劇場公開後直ちにSNSを操作してソーシャルな評価を形作りそれを宣伝することで興行的失敗のリスクマネジメントをする製作者側の態度ももう一度、見直されるべきだと思う。

考察厨も考察を有難がる観客達も作品自体の質の話を議論するべきである。

内容について

前項で氏が、「純粋に虚構の物語を楽しむ」という映画体験がSNSによって底上げされたソーシャルな評価によって蔑ろにされている問題視していることについて言及したが、著作『2020年代の想像力』の中では、SNSを利用した付加価値化戦略によって偽装されている『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の内容的空疎さについても同時に論じていた。

私もそれに倣いSNS上の盛り上がりによって偽装された本作『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) -Beginning-』の内容的空疎さについて論じようと思う。

キャラクターデザインについては、「ポップにすることでガンダム初心者にも口当たりの良いデザインにしよう」という意図があると思いますので文句はないです。

音楽もVtuberの方を挿入歌に起用したことで一部の界隈で問題視されていたようですが、特に気にはならなかったです。

問題は、(物語の構造を含む)脚本キャラクター造形です。

まず、物語の構造。

機動戦士ガンダムUCでは宇宙世紀という設定の拡張を物語の中核においたように本作ではニュータイプという設定を拡張する物語になっています。

ここで少し頭が回る人ならば、機動戦士ガンダムシリーズの宇宙世紀という設定をガンダムUCでは「ラプラスの箱」という形でブラックボックス化したのだがそれは只の設定のための設定であり、それがある種、陰謀論的に扱われることで、「それさえ解決すれば救われる」みたいな安易な目的を持つ主人公バナージのキャラクター造形や話の肝であるはずの「ラプラスの箱」の回収の仕方がガンダムの歴史に依存したままの縮小再生産的な物語の象徴となってしまい、ガンダムを乗り越える或いは破壊するような野心的作品にはならなかったことを思い出すはずです。

それを踏まえると本作もニュータイプという設定をブラックボックス化して、「よくわかんないけど…なんか分かった!」という主人公マチュのセリフにあるようにニュータイプという設定をパッションやシンパシーのように回収している様を観てガンダムUCのようになり得る可能性を感じ、一抹の不安が募っていますが同じ轍を踏むかどうかを現時点では判断しかねるので問題提起程度にしておきたいと思います。

つぎに、脚本とキャラクター造形。

キャラクターデザインや音楽の志向そして、「カラーとサンライズの夢が交わる」というキャッチコピーから、「ガンダムをヱヴァ色に染めて、これからは俺たちがガンダムを引っ張っていくんだ!!」というコンセプトとしての野心は見て取れるが、中身は、物語として新鮮味がないし、基本的なカタルシスの作り方も正直、お粗末である。

具体的に言うと、主人公マチュをつまらない現実に飽き飽きし、面白いものを求めている若者というキャラクター造形にするのは良いが、「やっちゃいけないことをやろうとしている」というような葛藤のシーンが薄すぎて、ザクとの戦闘やクランバトルで勝利を掴む際のカタルシスがすごく弱い。

「まあ、編集版だから。」という言い訳もあるだろうが、無駄に長いアクションシーンをうまく整理すれば、主人公マチュの人物描写をもっと丁寧に描く尺は捻出できたはずだ。

また、マチュと対比して描かれるべきニャアンというキャラクターも印象が薄く、マチュとシュウジの関係性をどう捉えているのか、それともシンパシー的な繋がりを否定するのか、或いは、マチュに憧れを抱いているが故の嫌悪感を持っているのかのようなキャラ付けを序盤で強調しておかないと、ニャアンがマチュやシュウジと交流することによって、変化する気持ちをうまく描けなくなってしまう。

このような脚本やキャラクター造形の粗(アクションシーンさえ良ければ頭の弱い観客は満足するだろうと踏んで敢えてそうしたのかもしれないが)も米津玄師のポップな曲とCGを用いた躍動感のあるアクションシーンのおかげでカバーし、ギリギリ観れるものに成立させているのはお見事なのかもしれないが、「もう少しどうにかならなかったのか」とも思う。

また、論点はそこだけではなく、主にキャラクター造形にみられる「社会情勢について鈍感すぎる」点も問題だ。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の批評で宇野常寛氏は、中盤の農本主義的なシーンに「そんなもので悩みが解消されるなら苦労しないわ!」と苦言を呈していたが、本作でも『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』と同じような社会情勢の変化やそれに伴う人間の行動原理の変容についての無関心さが見られる。

ニュータイプをパッションやシンパシーのように回収するのは良いが、このポストトゥルースの時代に「感情の赴くままに面白いを追求すれば良いんだ」なんていう行動原理を持つキャラクターを主人公に据えるのはかなり危険だと思う。

なぜなら、日本では石丸現象や兵庫県知事選。アメリカなら大統領選挙にトランプ再選という政治的なトピックに象徴されるように吟味された正しさよりも短期的な享楽へ人間の意識が傾いた結果、陰謀論の誕生やポピュリズムの台頭を生み出したのは火を見るよりも明らかである。

パッションやシンパシー自体を否定するつもりはないが、SNSが民主主義にまで影響を及ぼす時代に虚構と現実にしっかりと線を引いて、虚実それぞれに適した思考へ切り替えられる人がどれだけいるだろうか?

正直、「怪しい人がかなりいるのでは?」と思う。

では、なぜ、そこまで私が一般観客層における虚構と現実の区別について懐疑的なのかというと、こういう例があるからだ。

2019年公開のトッド・フィリップ監督作品「JOKER」は、「虚実の境目が段々と曖昧になって、遂に虚構のような現実が到来してしまったのが今日のアメリカ社会なのだ」というアメリカ社会への強烈な批判性をもったテーマだった。

それ故にアカデミー賞候補に名を連ねるほど良作として評価されたわけだが、その作品の日本での評価は、「社会的弱者が強者を倒す下剋上がカッコ良くてスカッとした!」のような解釈が大半で、それを象徴するように起きた京王線での例の事件も我々の記憶に新しいはずだ。

このような日本の観客の映画リテラシーの低さを考慮すると、私は本作に対して何の疑問も持たないまま無批判に受容し、持て囃されている現状には不安しかないし、そのような観客を慰撫するようなキャラクター造形を設計する作り手にも現代社会への鈍感さを感じる。

そして、これが最も問題だと思うのが、ガンダムは、戦争をリアルに描いているから良い。逆にリアルに描いていないガンダム作品はダメ」というようなタブロイド思考(判断が難しいような事象をステレオタイプな枠で捉える思考)的に本作やその他のガンダムシリーズ全般を評価するガンダムオタクが多い点である。

確かに、1stと呼ばれる『機動戦士ガンダム』は、ガンダム以前の地球を守る地球人対地球を侵略する異星人のような完全懲悪ものばかりだったロボットアニメに敵方味方方のような二項対立をキャンセルするリアルな戦争描写とそれに連なる人間ドラマを持ち込んだことが子供だけでなく大人をも引き付ける魅力に繋がったことは間違いない。

しかし、ウクライナ戦争や2023年パレスチナイスラエル戦争が日々、ニュースで取り上げられるようになり、戦争との距離が一気に近くなった今日において「戦争をリアルに描くこと」のみが主題になり得ないことは、理の当然である。

ならば、「今日のロボットアニメにおいて何を主題にするべきなのか?」

それは、「戦争をどうリアルに描くのかではなくなぜ戦争が起こってしまうのか?」についての前提を問うことを主題にするべきだと私は考える。

そして、これまた面白いものでその主題を巧みに描いていると私が評価しているのが同じガンダムシリーズの一作である2021年公開 村瀬修功監督作品機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイである。

理由を説明しよう。

同作においてもリアルな戦争描写は、他のガンダム作品同様に描かれているもののハサウェイとタクシー運転手との会話の中でマフティーのテロについて「暇なんだね。その人さ。」と言われ、マフティーの活動が市井の人々からどのように認識され、自分とどれだけ問題意識がズレているのかを目の当たりにして面食らうシーンやテロ実行直前のホテルでベッドに横たわるシーン、怖がるギギを抱きかかえながら目前で戦闘を体験するシーン等の映像言語を用いた演出で示唆されているハサウェイの「葛藤」を鑑みれば、それが主題ではなく敢えてリアルな戦争描写を強調して描くことで『自分の問題意識は正しいのか?他者の視点に立って考えられているのか?本当にテロという手段が弱者を救うことに繋がるのか?むしろマフティーのテロによって弱者を救うどころか新たな戦争の火種を生み出してしまっているのではないか?』という「なぜ、戦争が起きるのか?」についての前提を問うという主題を描くためのツールとして利用されていることは明白だ。

にもかかわらず、これは少数意見であると信じたいが、某映画情報サイトによせられた同作へのレビューの中に「戦闘シーンが暗すぎて分かりにくかった」なるレビューを見かけて「それは敢えてそうすることで暗闇の中で何が起こっているのか分からないというハサウェイ達が体験している戦争の恐怖感を画面の暗さ+映画館の暗さを利用して疑似体験的に演出しているんだ! そしてその演出も主題を引き立たせるためのツールであることは、物語全体に通底された演出を鑑みれば見抜けるだろ!」と憤りを感じたのだが、このように一般のガンダムオタク達はツールとして描かれているだけのリアルな戦争描写や戦闘シーンにしか関心がなく、それらは、主題を描くためのツールでしかないという物語へのメタ視点・メタ認知が全くない。

「こんなクソ社会から現実逃避したい」という欲望を虚構に求める気持ちは分かるが、何を信用したらいいのか分からない時代だからこそ自身の意識を他人の物語(虚構)に没入させ、感情移入することでまるで自分の物語のように体験する高畑勲が言うところの「没入型」の映画視聴体験に一度見切りをつけ、他人の物語(虚構)を第三者目線で観ている自分という意識づけが必要だ。

しかし、本作、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) -Beginning-』へのレビューや感想記事を覗いてみても「戦闘シーンが良かった」等の感想が散見されることを考慮すると日本のアニメファン・アニメオタク・ガンダムオタク達の鑑賞力の低さには呆れてものも言えない。


ただ、本作のような作品がウケる理由も分かる。

それは、我々がつまらない現実から逃れられないと自覚しているからだ。

ヒットの法則=快感原則

これは、上記の記事内でも語ったことだが人間の善性を信じられない現代だからこそ、虚構の中だけでも安心・安全を得たいという欲望を見事に解消した『葬送のフリーレン』が人々の快感原則に沿ってヒットしたように、つまらない現実から逃れられないことを半ば自覚している大人達だからこそマチュのような自由を求めるキャラクターが活躍する物語に興奮する。

だから、そのような快感原則に沿うような作品づくりがヒットの法則であり、興行的には成功なのだ。

この欲望まみれの真実は、作品を売り込む側にとっては自明だろう。

しかし、それは、’商品’であって’作品’ではない。

映像作品に限った話ではないが、「お金になるものは’正義’それ以外は価値なし」みたいな言説が当たり前のようにエンターテインメント業界で共有されている現状も問題大ありである。

だからこそ、一定程度の資金回収が見込める巨大IPガンダムならば、そのような問題を吹っ飛ばすほどの野心的な作品が期待できると踏んだが、野心的だったのはエヴァンゲリオンガンダムの融合という現実に即したキャッチコピーだけで、肝心の虚構の物語は現実の快感原則に沿っただけの凡庸なものだったと思う。

 

’お客様’おもてなし作品を作る弊害

少し話が逸れるが重要な事なのでアメリカのオンライン決済システムPayPalの創業者ピーター・ティールの言葉を紹介する。

’競争’は、’敗者’のもの。

by ピーター・ティー

この言葉が意味するところは、仮にテクノロジーが発展しても大衆の需要に沿う形で利用され、その需要の奪い合いをする’競争’が生まれると次のテクノロジーの発展そのものを阻害してしまう。

つまり、需要の奪い合い’競争’のせいでテクノロジーの発展による恩恵を受けられない我々は、全員’敗者’になる。

そう言っているのです。

あれ、これってアニメーション業界にも符合する話ではないでしょうか?

大衆の需要に沿うような’お客様’おもてなしの作品づくりをするとクソどうでもいい興行的な’競争’が生まれ現実の快感原則に沿う似たような作品ばかりが氾濫し(主に脚本や演出面に顕著だが)アニメーションの表現力・創作力そのものが低下してしまう。

今まさにこの状況だと思うのですが、本作を鑑賞した人はこの問題をどう受け止めているのでしょうか?

恐らく、頭に過りもしていないと思います。

だから私は、日本のアニメファン・アニメオタク本作に限ればガンダムオタク達って【(自分で自分の首を絞めていることにも気付かずに)ホントにお気楽で幸せな人達だなぁ】と思うし、同時に「この国のエンターテインメント作品。特にアニメーション。このままで大丈夫か?」とも思うわけです。

長文失礼しました。

山田玲司チャンネルの『葬送のフリーレン』特集回のコメント欄について

初めにこの動画を見てみてください。

 


www.youtube.com

 

否定的な意見を受け入れられない

 

この動画は、漫画家 山田玲司先生のyoutubeチャンネル「山田玲司ヤングサンデー」の『葬送のフリーレン』特集回だが、非常に気になる言葉がこの動画のコメント欄に見かけたので、それについて少し考えてみようと思う。

 

件のコメントがこれだ。

 

「極めて狭量で偏った(しかも中身の薄い)自説を展開するため」に、既存の現行作品を"道具としてしか扱わない"ような姿勢が一貫していることに、非常にドン引きしました 自身の「読解力の低さ/読解するモチベのそもそもの低さ」を棚に上げて、作品への敬意がまるで感じられない  そこらのしょーもない感想系インフルエンサーならいざ知らず、漫画家かつ感想系論客ビジネスやっててこれ…? 私としましては、心から軽蔑します 奥野さんに関しては、この限りではありません。

 

かなり嫌味たらしい言葉を使って山田先生のことを批判している文章であることが

一目で分かるのだが、このコメントを書いた人はなぜここまで怒っているのか?

 

理由はただ一つ。

 

山田先生が『葬送のフリーレン』に対して否定的なコメントをしたからだ。

 

非常に不可解である。

 

そもそも、山田先生が漫画家の視点を使って、得意とする時代性を絡めた評論を展開しながら、他のメンバーと議題について議論を交わし合うのがこの番組のコンセプトである。

 

議論を交わすのだから、否定的な意見が出ることだって当たり前。真向から意見が対立することだって当たり前である。

 

このコメントの主は何か勘違いをしていないか?

 

狭量?

 

「否定的な意見を全て的外れだと断定して、山田先生を中傷するような文章を書く君こそ他人の意見を受け入れられない狭量な人間ではないか!」とこのコメント主に言い返してやりたいが、このコメントを見て率直に思ったのは「山田先生、かわいそう」でもなく、「このコメント書いた奴許さん!」でもなく、否定的な意見一つになぜそこまで過剰反応するのかということだ。

 

 

現在、SNSyoutubeを中心としたネット界隈で盛り上がっている作品に対して否定的なコメントをすると、X(旧 Twitter)ではミュートかブロック。youtubeではコメント欄で中傷が当たり前となっている。その現状を象徴するように、批評家の東浩紀氏は「批評を辞める。批評は成立しない」という旨をご自身の動画で語っていた。

 

つまり、一批評家に批評を辞める決心をさせるほど否定的な意見を受け入れられない人が私が考えているよりもずっと多く存在するということだ。

 

「だったら、議論成立しないじゃん。」と思う私はおかしいのだろうか?

 

自分とは違う意見と自分の意見をすり合わせて、その結果、新しい考え方、見方が生まれ自分の視野だけでなく、多角的な視野を手に入れることができる。

 

それが議論を行うメリットのはずだ。

 

件のコメントを書いた人は、議論という言葉を知らないのだろうか?

 

議論をしないということは、新しい自分を手に入れる可能性を自らの手で消滅させる行為だと思う。

 

成長、進化の放棄。それが今日のインターネット空間における言論の形だ。

 

よく「日本経済の停滞が・・・」と嘆く人をXで見かけるが、言論の衰退に対してもっと危機感を持ったらどうだろうか。

 

言いたいことも言えない世の中は、ディストピアである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アリスとテレスのまぼろし工場」は、虚構を創造してきた岡田麿里の最終回答である。

noteに投稿した記事の転載ですがよろしければ読んでみてください。

アリスとテレスのまぼろし工場

先日、配信された岡田麿里監督最新作「アリスとテレスのまぼろし工場」を遅ればせながら、拝見した。そして、非常に後悔した。
「なぜ、劇場で見なかったのだろう。」と。
配信で見れば、聞き逃した台詞を巻き戻して見ることができるので、それなりのメリットもあるが、大スクリーンと大音響でこの作品を観るべきだったと、配信で見終わった今も後悔している。

さて、後悔の念を振り払うが如く、本作についてガンガン語っていこう。

まずは、単純な評価を書く。本作は岡田麿里が、今まで関わったアニメーション作品における集大成であり、最高傑作だと断じて良い出来だったと思う。勿論、前半は良かった演出(特に、政宗が五実と出会う直前から直後)が終盤に向かうにつれてビジュアル重視となり、演出的な旨味が薄くなってしまったことや、台詞で状況を説明しすぎなシーンが多いこと等、改善の余地はあるものの岡田麿里が紡いできた虚構の物語を自己批評的に描いた本作のスタンスは非常に好感が持てる。(私が批判した「葬送のフリーレン」は本作を見習って欲しいと強く思う。)

では、具体的な批評へ進んでいこう。

 

言いたいことも言えないこんな世の中で

冒頭から、「膝小僧の裏がエロい。」というマニアックな性的衝動を本人に聞こえるくらい大きな声で口から出す展開にビックリしたと共に、どこか安心してしまった。

私は常日頃から、ホワイト化が進み過ぎた現代につまらなさを感じている。
なので、誰もが人の顔色を窺って、相手を傷つけないように当たり障りのない会話だけを続け、承認しあう社会にNOを突きつけたい。しかし、実際、私の声など虫けら以下の騒音にもならないレベルなので、無意味だ。

「だったら、虚構の中でくらい言いたいことを言ってもいいだろ。」と訴えるマイノリティな日陰者にも優しくしてくれるのが、アニメ畑で育った我々の理解者岡田麿里である。

冒頭から、地上波では憚られるようなワードを発し、膝小僧をアップにして見せることで、自身の女性でありながら男性オタク的なフェティッシュを開示するとともに「私は虚構の世界とオタクを今でも愛していますよ。」と所信表明までしてくれる。なんとオタクに義理堅い作家だろう。
そんな彼女にオタクは感謝するべきだがそれだけでなく、カリカチュアライズ(風刺化)したマニアックなワードと描写を登場させることで、言いたいことを言えないホワイト社会への反抗という社会問題への回答も含んだシーンを映画の掴みに持ってくる辺りに岡田麿里の脚本家としての円熟が伺え、本作への本気度も共に感じられた。
脚本家出身の監督ならではの器用さが冒頭のシーンにあったと思う。

 

止まったままの世界でどう生きるか


本作において特徴的なのが、主人公やヒロイン、それに関わるサブキャラキターだけがタイムリープないし、タイムスリップするのではなく、町そのものの時間が止まってしまうこと、そして止まる前の自分と変わらないように自己確認票で過去の自分(時間は止まっているが、何年もそこで過ごしている)と今の自分を比較しながら生きることを強制されている所だ。
その設定だけで、単に主人公視点の主観的なファンタジーではなく、町を巻き込んだ群像劇があくまでもお話の中心だと見せることができるし、町ぐるみの方針に反抗する主人公を描くことで弁証法的な展開を通して主人公視点へスムーズに移行し、セカイ系への差別化と独立した作品であることも強調できる。非常に巧みである。

また、この部分だけでなく、本作は時間が止まることで起こる現象を細部まで整合性を合わせるように描いている。(特にお腹の中の赤ちゃんが生まれてくるのを待ち続け、空のベビーカーを引いている妊婦さんにはびっくりした。)この徹底ぶりは、新海誠的なTHEセカイ系のご都合主義から脱却し、一設定を突き詰めれば、観客に「幼稚な作品なのか?」という疑念を抱かせないままセカイ系のフォーマットを物語の中に浸透させることができるということを証明し、おそらく主題の一つだと考える「虚構を紡いできた者たちへの回答」の布石になっている描写なのだと思う。

生と死、現実と虚構の類似性

冒頭のシーンの話に戻ってしまって申し訳ないが、気絶ごっこや退屈しのぎの靴の隠し合いなど、いじめや暴力を想起させる遊びを中学生の彼らが平気で行っていることから、単に止まったままの世界に居続けることで、彼ら彼女らの倫理観みたいなものが壊れている様をしっかり見せるのも、前述した徹底ぶりの内だと思っていたが、生と死、虚構と現実の双方の距離感への類似性と照らし合わせて考えると自分の見立てが間違っていると気づいた。

この遊びは、「死を意識することで、初めて人は生を実感する。」という哲学的な意味合いと、虚構に存在していると意識することで、現実への回帰=虚構での死から逃れられ、生を延長することができるという。この物語のルールとをダブらせる意図があった。そして、それは本作のキーワードである「好きは痛い。(居たい。)」に繋がってくる。

大嫌いと思うことの延長線上に好きがあると主人公が気づくのと同じく、
生の延長線上に死があり、現実の延長線上に虚構があるのではないかという、現実から切り離され、逃避の受け皿となってしまった虚構を生み出し続けるセカイ系に対して、「虚構があるからこそ心の安寧を図ったり、自分の気持ちを素直に吐き出せるのだ。」という半分の肯定と、「虚構の中でも痛みを現実を生を実感しなければならない。それを忘れてはいけない。」という半分の否定をキャラクターの行動と言葉で表現させることで、岡田麿里の現実逃避の受け皿と化したセカイ系への回答を示唆していると私は感じた。

そして、この回答は過剰なファンタジー世界に慣れ過ぎた我々に、新たなオルタナティブ岡田麿里から提示してもらっていることになる。

このオルタナティブについて考えることもこの作品の持つテーマの一つなのかもしれない。

 

虚構を創造してきた者たちへの回答

生と死、現実と虚構についての言及がなされていると書いたが、それは、物語上の設定だけに留まっていない。

気になった点の一つに、正宗が五実にあげたパンを口に入れたあとチーズが伸びる作画を異様に美しく作画していたシーンがある。察しの良い人は何を私が言いたいのか分かると思うが、例の天空の城のシーンを思い出した。
また、五実のウエディング姿や、終盤のカーチェイスはもみ上げが特徴的な大泥棒が姫を救う例の作品を思い起こさせる。

ここで、補足として説明すべきことは、パロディとオマージュは似て非なるものということだ。

例を使うと、新世紀エヴァンゲリオンという作品はパロデイではなくオマージュを多用しているとオタキングこと岡田斗司夫氏は語る。

「パロデイとは、観客に類似作品を思い出させ、笑わせる機能しかないが、オマージュは目的のあるパクリである。」と氏は言う。

庵野秀明は幼少期に見たものを自身の作品に入れ込むことを、虚構から現実に回帰するための通過儀礼、儀式だと思っている。なぜなら、それが物語を閉じる際、虚構に浸ってきた自分を清算することに繋がるからだ。」と、おおよそこのようなことを氏は熱弁していた。

では本作の一連のシーンはどうなのか?

私は、90年代以降のアニメーション(岡田麿里が今まで触れてきた虚構の世界)の総括を自身の集大成作品である本作でやりたかったのではないか。と考える。

生と死のテーマはもののけ姫以降の宮崎駿作品で頻繁に取り上げられているもので、現実と虚構が曖昧になるというテーマはエヴァンゲリオンの主題である。また、先ほど指摘したセカイ系への回答も含めて考えると、岡田麿里アポロン型(過去の作品に強い影響を受け、その模倣から出発する人)の作家でありオマージュを使うことで「私はこの作品に影響を受けました。」と意思表示することが、自身が触れてきたアニメーションを総括するために必要な儀式であると考えたのではないだろうか。

であれば、この作品でやりたいことは、自身のドラマツルギーは自分が触れてきた作品によって形作られていて。それを観客に意識させた上で、比較しながら鑑賞してもらい、その最終的な回答をこの映画で示すことが、自己批評的な映画を作り、自身の集大成とすることと90年代以降のアニメーションの想像力を総括することになり、その二つの目的のためにオマージュを利用しているように見えてくる。

脚本段階から練り上げられた重層的な構造である本作には感服である。

最終的な回答とは?

ラストシーンを見れば、誰でも分かることだが岡田麿里は、新海誠的な自身の問題が解決すれば、世界の問題も同じく解決されるようなご都合主義には加担しないし、ましてや、宮崎駿的な「君たちはどう生きるか」で描かれたような、滅びゆく世界なんて誰にも止められないから、そこから脱出して生きろという無責任な言い分にも加担せず、庵野秀明のような虚構をオマージュを持ち得て物語を閉じることで、過去を相殺し、現実に回帰することに繋がるとも思っていない。

虚構から抜け出しても現実は今まで通り存在するし、過去に虚構に浸っていた事実はいつまでも消えない。そして、自分が離れた瞬間、虚構が跡形もなく消えることもないし、はたまた虚構に生き続ける選択肢を肯定することで、虚構が現実逃避者にとってディストピアになるとも思っていない。

つまり、「どちらが悪いなんて言えない。対処法としては、現実と虚構の距離感を正しくとって生きること以外私には考えられない。だってどちらの世界も愛しているから。」岡田麿里は回答しているのだ。
だから、現実に回帰した五実のラストシーンは虚構に居た自分を思い出し、この先の未来に希望が満ちているように描くし、虚構の政宗と睦実は現実に五実を返して、晴れて好き同士になる。

一見、子供の駄々のようにも聞こえるが、現実と虚構の境界線が曖昧になった現代では、このくらいふんわりとした意見の方が方面に角が立たず、有効にも思える。

また、厳しく虚構の世界を批判し、現実への回帰を促すリア充やそれに反抗して虚構の世界へ没頭する現実逃避者、両者の極端なスタンスは分断を生み出す原因にも成り得る。

そんな冷戦状態を解体するのが本作の機能の一つであれば、虚構を創作し、現実へと供給する岡田麿里の創作論は相当深い所まで潜っているということなのだろう。

 

娘の自立に伴う親の役割


ラストシーンへ向けて加速する怒涛の展開は、岡田麿里の虚構を創作することへの回答だけを表しているものではなく、ある種の自立論としても興味深いものになっている。

特徴的だと感じたのが、盆祭りの日、見伏の町に流れ着く前の五実(沙希)が可愛いキャラクターの付いたハッカパイプを父親にねだるシーンだ。

父親(正宗)は、娘を喜ばせるために買ってあげようとするが、
母親(睦実)は、「買わなくてもいい。」と正宗に告げる。

母親の言葉に拗ねてしまった五実(沙希)は「買ってくれるまでここを離れない。」とその場に座り込んで、駄々をこねる。

しかし、睦実は娘の反抗に屈せず、ハッカパイプを買わずにその場を離れてしまう。そして、睦実が少し目を離した瞬間に五実はいなくなってしまう。

ストーリー的にはこの出来事が五実(沙希)を見伏の町に誘うトリガーになっているのだが、この一連のシーンは、正宗と睦実が協力して、五実を現実の世界へ帰すクライマックスのシーンとダブるように描かれている。

クライマックス。

列車に五実を乗せて、後はトンネルを抜ければ五実が現実に帰れる状況を作った正宗は一安心し、五実を列車に乗せるため同乗した睦実も列車降りてくると思った。しかし、睦実は列車から降りず、娘である五実に最後の言葉をかける。「正宗が好きなのはあなたではなく、自分である。」と。

この盆祭りのシーンとクライマックスのシーン。
正宗と睦実の五実への対応の違いを反復して岡田麿里は描いている。
確実に作為的な何かを感じた。

なので、私が思うこのリフレインの意味とは、
「娘の自立を促すために親のすべきこととは何なのか?」だと考える。

まず、父親の役割は、「自立を覚悟した娘の背中を押し、遠いところから見守ってやること。」だ。
だから、正宗は状況を作り出すだけで列車には乗れないし、ハッカパイプを娘に買ってやれない。娘を心配することしか許されない。

次に母親の役割。それは、「娘を拒絶すること。」だろう。
自立する。つまり、一人で生きていくには、強くあらねばならない。娘なら尚更だ。「父親に甘えていれば、望みが叶うと思っている。」そんな状態ではいつまでたっても親離れできず、自立なんて夢のまた夢。ましてや父親を好きになるなんて言語道断だ。

例え嫌われても、母は娘を拒絶することで自立を促し、父がそっと背中を押してあげる。

「娘への愛情表現とは可愛がることだけではなく、ましてや厳しく躾けることだけでもない。父親と母親の役割はそれぞれ違うものである。」という
岡田麿里流の自立論が両シーンから窺い知れる。

それを証拠にエピローグでは、大人になった五実(沙希)が、一人で製鉄所跡を訪れる様子が描かれている。

おそらく、娘の自立は成ったという答え合わせのシーンだろう。

加えて、自立した後のシーンであるはずなのに何かを強調するよう、未だに父親は娘が心配で電話をかけ、母親は何も言わない。というシーンを最後の最後まで執拗に描く。

執拗とは言葉が汚いかもしれないが最後の最後まで、自らが作り出した虚構の世界とそこに生きる者たちへの責任感を忘れない脚本家 岡田麿里の気概もあのエピローグからひしひしと伝わってきて、隅の隅まで余すところなく、岡田麿里を見せてくれる本作は集大成的な作品といっていいものだろう。

総評


個々のシーンやストーリーの構成、展開、演出等にどんな意味が込められているかをよく考えながら見てほしい作品だと思った。

しかし、そんな私の願いを叶わず、映画レビューサイトの評価を覗いてみると、やれ「リアリティーがない。」だの、「性的なシーンが気持ち悪い。」だの中身を全く理解できてないと思われるレビューが散見された。
なぜ、それが「敢えてカリカチュアライズすることで何かを考えさせる意図があるのではないか?」という発想に至らないのか。甚だ疑問である。

これらのレビューからは、補助線を自分で引いて作品を鑑賞するという経験が若者に限らず、全年代で主観的なファンタジーの氾濫を理由に非常に不足していると感じる。

そんな今だからこそ、この作品を強く推したい。

岡田麿里監督の次回作にみなさん期待しましょう。それでは。

 

はじめまして

はじめまして。

 

新人と言います。名前の理由は、映像表現の批評家として新人だからです。

 

noteというプラットフォームでそれなりに文章を書いてきたのですが、もっと多くの方に記事を読んでもらおうと思い、ブログを開設しました。

 

基本的に私は嘘をつきたくない人なので、思ったことをそのまま書きます。

時には、私の文章で嫌な気分になる方もいらっしゃると思います。

 

しかし、「嫌だから見ない。私を気持ちよくさせる絶賛記事しか読まない。」では人間は成長しません。

 

なので、「自分とは真逆の意見に真摯に向き合い、考えを改めろ!」とは言いません。

 

「こういう考え方もあるんだ」と読者の視野を広げるための記事をこのブログに投稿していきたいですし、コメントしてくれる方と積極的にやり取りをして今日のSNSで失われてしまった議論の場としてもこのブログを運営していきたいと思っています。

 

どうぞご遠慮なく思ったことをコメントして頂ければと。

 

ですが、一つ注意点として感情的な考え方をある程度抑えておかないと、

「お前の言葉使いが気に入らない!」のような記事の内容とは全く関係のない中傷まがいのコメントや「それは違う気がする」のような根拠の伴っていない批判がコメント欄に飽和し、健全な議論の場は一生作られません。

 

ここは、罵詈雑言の許されたSNSではないので、コメントする方も常識的な責任感を持つよう心がけて頂きたく存じます。

 

まあ、そんな仰々しいことを言いつつも、私は好意的な人に対して非常にウェルカムなので、記事に対する質問や感想はドシドシ書いて頂ければ、できる限り返信したいと思っています。

 

これからどうぞよろしくお願いします。

 

新人。より