山田玲司チャンネルの『葬送のフリーレン』特集回のコメント欄について

初めにこの動画を見てみてください。

 


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否定的な意見を受け入れられない

 

この動画は、漫画家 山田玲司先生のyoutubeチャンネル「山田玲司ヤングサンデー」の『葬送のフリーレン』特集回だが、非常に気になる言葉がこの動画のコメント欄に見かけたので、それについて少し考えてみようと思う。

 

件のコメントがこれだ。

 

「極めて狭量で偏った(しかも中身の薄い)自説を展開するため」に、既存の現行作品を"道具としてしか扱わない"ような姿勢が一貫していることに、非常にドン引きしました 自身の「読解力の低さ/読解するモチベのそもそもの低さ」を棚に上げて、作品への敬意がまるで感じられない  そこらのしょーもない感想系インフルエンサーならいざ知らず、漫画家かつ感想系論客ビジネスやっててこれ…? 私としましては、心から軽蔑します 奥野さんに関しては、この限りではありません。

 

かなり嫌味たらしい言葉を使って山田先生のことを批判している文章であることが

一目で分かるのだが、このコメントを書いた人はなぜここまで怒っているのか?

 

理由はただ一つ。

 

山田先生が『葬送のフリーレン』に対して否定的なコメントをしたからだ。

 

非常に不可解である。

 

そもそも、山田先生が漫画家の視点を使って、得意とする時代性を絡めた評論を展開しながら、他のメンバーと議題について議論を交わし合うのがこの番組のコンセプトである。

 

議論を交わすのだから、否定的な意見が出ることだって当たり前。真向から意見が対立することだって当たり前である。

 

このコメントの主は何か勘違いをしていないか?

 

狭量?

 

「否定的な意見を全て的外れだと断定して、山田先生を中傷するような文章を書く君こそ他人の意見を受け入れられない狭量な人間ではないか!」とこのコメント主に言い返してやりたいが、このコメントを見て率直に思ったのは「山田先生、かわいそう」でもなく、「このコメント書いた奴許さん!」でもなく、否定的な意見一つになぜそこまで過剰反応するのかということだ。

 

 

現在、SNSyoutubeを中心としたネット界隈で盛り上がっている作品に対して否定的なコメントをすると、X(旧 Twitter)ではミュートかブロック。youtubeではコメント欄で中傷が当たり前となっている。その現状を象徴するように、批評家の東浩紀氏は「批評を辞める。批評は成立しない」という旨をご自身の動画で語っていた。

 

つまり、一批評家に批評を辞める決心をさせるほど否定的な意見を受け入れられない人が私が考えているよりもずっと多く存在するということだ。

 

「だったら、議論成立しないじゃん。」と思う私はおかしいのだろうか?

 

自分とは違う意見と自分の意見をすり合わせて、その結果、新しい考え方、見方が生まれ自分の視野だけでなく、多角的な視野を手に入れることができる。

 

それが議論を行うメリットのはずだ。

 

件のコメントを書いた人は、議論という言葉を知らないのだろうか?

 

議論をしないということは、新しい自分を手に入れる可能性を自らの手で消滅させる行為だと思う。

 

成長、進化の放棄。それが今日のインターネット空間における言論の形だ。

 

よく「日本経済の停滞が・・・」と嘆く人をXで見かけるが、言論の衰退に対してもっと危機感を持ったらどうだろうか。

 

言いたいことも言えない世の中は、ディストピアである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アリスとテレスのまぼろし工場」は、虚構を創造してきた岡田麿里の最終回答である。

noteに投稿した記事の転載ですがよろしければ読んでみてください。

アリスとテレスのまぼろし工場

先日、配信された岡田麿里監督最新作「アリスとテレスのまぼろし工場」を遅ればせながら、拝見した。そして、非常に後悔した。
「なぜ、劇場で見なかったのだろう。」と。
配信で見れば、聞き逃した台詞を巻き戻して見ることができるので、それなりのメリットもあるが、大スクリーンと大音響でこの作品を観るべきだったと、配信で見終わった今も後悔している。

さて、後悔の念を振り払うが如く、本作についてガンガン語っていこう。

まずは、単純な評価を書く。本作は岡田麿里が、今まで関わったアニメーション作品における集大成であり、最高傑作だと断じて良い出来だったと思う。勿論、前半は良かった演出(特に、政宗が五実と出会う直前から直後)が終盤に向かうにつれてビジュアル重視となり、演出的な旨味が薄くなってしまったことや、台詞で状況を説明しすぎなシーンが多いこと等、改善の余地はあるものの岡田麿里が紡いできた虚構の物語を自己批評的に描いた本作のスタンスは非常に好感が持てる。(私が批判した「葬送のフリーレン」は本作を見習って欲しいと強く思う。)

では、具体的な批評へ進んでいこう。

 

言いたいことも言えないこんな世の中で

冒頭から、「膝小僧の裏がエロい。」というマニアックな性的衝動を本人に聞こえるくらい大きな声で口から出す展開にビックリしたと共に、どこか安心してしまった。

私は常日頃から、ホワイト化が進み過ぎた現代につまらなさを感じている。
なので、誰もが人の顔色を窺って、相手を傷つけないように当たり障りのない会話だけを続け、承認しあう社会にNOを突きつけたい。しかし、実際、私の声など虫けら以下の騒音にもならないレベルなので、無意味だ。

「だったら、虚構の中でくらい言いたいことを言ってもいいだろ。」と訴えるマイノリティな日陰者にも優しくしてくれるのが、アニメ畑で育った我々の理解者岡田麿里である。

冒頭から、地上波では憚られるようなワードを発し、膝小僧をアップにして見せることで、自身の女性でありながら男性オタク的なフェティッシュを開示するとともに「私は虚構の世界とオタクを今でも愛していますよ。」と所信表明までしてくれる。なんとオタクに義理堅い作家だろう。
そんな彼女にオタクは感謝するべきだがそれだけでなく、カリカチュアライズ(風刺化)したマニアックなワードと描写を登場させることで、言いたいことを言えないホワイト社会への反抗という社会問題への回答も含んだシーンを映画の掴みに持ってくる辺りに岡田麿里の脚本家としての円熟が伺え、本作への本気度も共に感じられた。
脚本家出身の監督ならではの器用さが冒頭のシーンにあったと思う。

 

止まったままの世界でどう生きるか


本作において特徴的なのが、主人公やヒロイン、それに関わるサブキャラキターだけがタイムリープないし、タイムスリップするのではなく、町そのものの時間が止まってしまうこと、そして止まる前の自分と変わらないように自己確認票で過去の自分(時間は止まっているが、何年もそこで過ごしている)と今の自分を比較しながら生きることを強制されている所だ。
その設定だけで、単に主人公視点の主観的なファンタジーではなく、町を巻き込んだ群像劇があくまでもお話の中心だと見せることができるし、町ぐるみの方針に反抗する主人公を描くことで弁証法的な展開を通して主人公視点へスムーズに移行し、セカイ系への差別化と独立した作品であることも強調できる。非常に巧みである。

また、この部分だけでなく、本作は時間が止まることで起こる現象を細部まで整合性を合わせるように描いている。(特にお腹の中の赤ちゃんが生まれてくるのを待ち続け、空のベビーカーを引いている妊婦さんにはびっくりした。)この徹底ぶりは、新海誠的なTHEセカイ系のご都合主義から脱却し、一設定を突き詰めれば、観客に「幼稚な作品なのか?」という疑念を抱かせないままセカイ系のフォーマットを物語の中に浸透させることができるということを証明し、おそらく主題の一つだと考える「虚構を紡いできた者たちへの回答」の布石になっている描写なのだと思う。

生と死、現実と虚構の類似性

冒頭のシーンの話に戻ってしまって申し訳ないが、気絶ごっこや退屈しのぎの靴の隠し合いなど、いじめや暴力を想起させる遊びを中学生の彼らが平気で行っていることから、単に止まったままの世界に居続けることで、彼ら彼女らの倫理観みたいなものが壊れている様をしっかり見せるのも、前述した徹底ぶりの内だと思っていたが、生と死、虚構と現実の双方の距離感への類似性と照らし合わせて考えると自分の見立てが間違っていると気づいた。

この遊びは、「死を意識することで、初めて人は生を実感する。」という哲学的な意味合いと、虚構に存在していると意識することで、現実への回帰=虚構での死から逃れられ、生を延長することができるという。この物語のルールとをダブらせる意図があった。そして、それは本作のキーワードである「好きは痛い。(居たい。)」に繋がってくる。

大嫌いと思うことの延長線上に好きがあると主人公が気づくのと同じく、
生の延長線上に死があり、現実の延長線上に虚構があるのではないかという、現実から切り離され、逃避の受け皿となってしまった虚構を生み出し続けるセカイ系に対して、「虚構があるからこそ心の安寧を図ったり、自分の気持ちを素直に吐き出せるのだ。」という半分の肯定と、「虚構の中でも痛みを現実を生を実感しなければならない。それを忘れてはいけない。」という半分の否定をキャラクターの行動と言葉で表現させることで、岡田麿里の現実逃避の受け皿と化したセカイ系への回答を示唆していると私は感じた。

そして、この回答は過剰なファンタジー世界に慣れ過ぎた我々に、新たなオルタナティブ岡田麿里から提示してもらっていることになる。

このオルタナティブについて考えることもこの作品の持つテーマの一つなのかもしれない。

 

虚構を創造してきた者たちへの回答

生と死、現実と虚構についての言及がなされていると書いたが、それは、物語上の設定だけに留まっていない。

気になった点の一つに、正宗が五実にあげたパンを口に入れたあとチーズが伸びる作画を異様に美しく作画していたシーンがある。察しの良い人は何を私が言いたいのか分かると思うが、例の天空の城のシーンを思い出した。
また、五実のウエディング姿や、終盤のカーチェイスはもみ上げが特徴的な大泥棒が姫を救う例の作品を思い起こさせる。

ここで、補足として説明すべきことは、パロディとオマージュは似て非なるものということだ。

例を使うと、新世紀エヴァンゲリオンという作品はパロデイではなくオマージュを多用しているとオタキングこと岡田斗司夫氏は語る。

「パロデイとは、観客に類似作品を思い出させ、笑わせる機能しかないが、オマージュは目的のあるパクリである。」と氏は言う。

庵野秀明は幼少期に見たものを自身の作品に入れ込むことを、虚構から現実に回帰するための通過儀礼、儀式だと思っている。なぜなら、それが物語を閉じる際、虚構に浸ってきた自分を清算することに繋がるからだ。」と、おおよそこのようなことを氏は熱弁していた。

では本作の一連のシーンはどうなのか?

私は、90年代以降のアニメーション(岡田麿里が今まで触れてきた虚構の世界)の総括を自身の集大成作品である本作でやりたかったのではないか。と考える。

生と死のテーマはもののけ姫以降の宮崎駿作品で頻繁に取り上げられているもので、現実と虚構が曖昧になるというテーマはエヴァンゲリオンの主題である。また、先ほど指摘したセカイ系への回答も含めて考えると、岡田麿里アポロン型(過去の作品に強い影響を受け、その模倣から出発する人)の作家でありオマージュを使うことで「私はこの作品に影響を受けました。」と意思表示することが、自身が触れてきたアニメーションを総括するために必要な儀式であると考えたのではないだろうか。

であれば、この作品でやりたいことは、自身のドラマツルギーは自分が触れてきた作品によって形作られていて。それを観客に意識させた上で、比較しながら鑑賞してもらい、その最終的な回答をこの映画で示すことが、自己批評的な映画を作り、自身の集大成とすることと90年代以降のアニメーションの想像力を総括することになり、その二つの目的のためにオマージュを利用しているように見えてくる。

脚本段階から練り上げられた重層的な構造である本作には感服である。

最終的な回答とは?

ラストシーンを見れば、誰でも分かることだが岡田麿里は、新海誠的な自身の問題が解決すれば、世界の問題も同じく解決されるようなご都合主義には加担しないし、ましてや、宮崎駿的な「君たちはどう生きるか」で描かれたような、滅びゆく世界なんて誰にも止められないから、そこから脱出して生きろという無責任な言い分にも加担せず、庵野秀明のような虚構をオマージュを持ち得て物語を閉じることで、過去を相殺し、現実に回帰することに繋がるとも思っていない。

虚構から抜け出しても現実は今まで通り存在するし、過去に虚構に浸っていた事実はいつまでも消えない。そして、自分が離れた瞬間、虚構が跡形もなく消えることもないし、はたまた虚構に生き続ける選択肢を肯定することで、虚構が現実逃避者にとってディストピアになるとも思っていない。

つまり、「どちらが悪いなんて言えない。対処法としては、現実と虚構の距離感を正しくとって生きること以外私には考えられない。だってどちらの世界も愛しているから。」岡田麿里は回答しているのだ。
だから、現実に回帰した五実のラストシーンは虚構に居た自分を思い出し、この先の未来に希望が満ちているように描くし、虚構の政宗と睦実は現実に五実を返して、晴れて好き同士になる。

一見、子供の駄々のようにも聞こえるが、現実と虚構の境界線が曖昧になった現代では、このくらいふんわりとした意見の方が方面に角が立たず、有効にも思える。

また、厳しく虚構の世界を批判し、現実への回帰を促すリア充やそれに反抗して虚構の世界へ没頭する現実逃避者、両者の極端なスタンスは分断を生み出す原因にも成り得る。

そんな冷戦状態を解体するのが本作の機能の一つであれば、虚構を創作し、現実へと供給する岡田麿里の創作論は相当深い所まで潜っているということなのだろう。

 

娘の自立に伴う親の役割


ラストシーンへ向けて加速する怒涛の展開は、岡田麿里の虚構を創作することへの回答だけを表しているものではなく、ある種の自立論としても興味深いものになっている。

特徴的だと感じたのが、盆祭りの日、見伏の町に流れ着く前の五実(沙希)が可愛いキャラクターの付いたハッカパイプを父親にねだるシーンだ。

父親(正宗)は、娘を喜ばせるために買ってあげようとするが、
母親(睦実)は、「買わなくてもいい。」と正宗に告げる。

母親の言葉に拗ねてしまった五実(沙希)は「買ってくれるまでここを離れない。」とその場に座り込んで、駄々をこねる。

しかし、睦実は娘の反抗に屈せず、ハッカパイプを買わずにその場を離れてしまう。そして、睦実が少し目を離した瞬間に五実はいなくなってしまう。

ストーリー的にはこの出来事が五実(沙希)を見伏の町に誘うトリガーになっているのだが、この一連のシーンは、正宗と睦実が協力して、五実を現実の世界へ帰すクライマックスのシーンとダブるように描かれている。

クライマックス。

列車に五実を乗せて、後はトンネルを抜ければ五実が現実に帰れる状況を作った正宗は一安心し、五実を列車に乗せるため同乗した睦実も列車降りてくると思った。しかし、睦実は列車から降りず、娘である五実に最後の言葉をかける。「正宗が好きなのはあなたではなく、自分である。」と。

この盆祭りのシーンとクライマックスのシーン。
正宗と睦実の五実への対応の違いを反復して岡田麿里は描いている。
確実に作為的な何かを感じた。

なので、私が思うこのリフレインの意味とは、
「娘の自立を促すために親のすべきこととは何なのか?」だと考える。

まず、父親の役割は、「自立を覚悟した娘の背中を押し、遠いところから見守ってやること。」だ。
だから、正宗は状況を作り出すだけで列車には乗れないし、ハッカパイプを娘に買ってやれない。娘を心配することしか許されない。

次に母親の役割。それは、「娘を拒絶すること。」だろう。
自立する。つまり、一人で生きていくには、強くあらねばならない。娘なら尚更だ。「父親に甘えていれば、望みが叶うと思っている。」そんな状態ではいつまでたっても親離れできず、自立なんて夢のまた夢。ましてや父親を好きになるなんて言語道断だ。

例え嫌われても、母は娘を拒絶することで自立を促し、父がそっと背中を押してあげる。

「娘への愛情表現とは可愛がることだけではなく、ましてや厳しく躾けることだけでもない。父親と母親の役割はそれぞれ違うものである。」という
岡田麿里流の自立論が両シーンから窺い知れる。

それを証拠にエピローグでは、大人になった五実(沙希)が、一人で製鉄所跡を訪れる様子が描かれている。

おそらく、娘の自立は成ったという答え合わせのシーンだろう。

加えて、自立した後のシーンであるはずなのに何かを強調するよう、未だに父親は娘が心配で電話をかけ、母親は何も言わない。というシーンを最後の最後まで執拗に描く。

執拗とは言葉が汚いかもしれないが最後の最後まで、自らが作り出した虚構の世界とそこに生きる者たちへの責任感を忘れない脚本家 岡田麿里の気概もあのエピローグからひしひしと伝わってきて、隅の隅まで余すところなく、岡田麿里を見せてくれる本作は集大成的な作品といっていいものだろう。

総評


個々のシーンやストーリーの構成、展開、演出等にどんな意味が込められているかをよく考えながら見てほしい作品だと思った。

しかし、そんな私の願いを叶わず、映画レビューサイトの評価を覗いてみると、やれ「リアリティーがない。」だの、「性的なシーンが気持ち悪い。」だの中身を全く理解できてないと思われるレビューが散見された。
なぜ、それが「敢えてカリカチュアライズすることで何かを考えさせる意図があるのではないか?」という発想に至らないのか。甚だ疑問である。

これらのレビューからは、補助線を自分で引いて作品を鑑賞するという経験が若者に限らず、全年代で主観的なファンタジーの氾濫を理由に非常に不足していると感じる。

そんな今だからこそ、この作品を強く推したい。

岡田麿里監督の次回作にみなさん期待しましょう。それでは。

 

はじめまして

はじめまして。

 

新人と言います。名前の理由は、映像表現の批評家として新人だからです。

 

noteというプラットフォームでそれなりに文章を書いてきたのですが、もっと多くの方に記事を読んでもらおうと思い、ブログを開設しました。

 

基本的に私は嘘をつきたくない人なので、思ったことをそのまま書きます。

時には、私の文章で嫌な気分になる方もいらっしゃると思います。

 

しかし、「嫌だから見ない。私を気持ちよくさせる絶賛記事しか読まない。」では人間は成長しません。

 

なので、「自分とは真逆の意見に真摯に向き合い、考えを改めろ!」とは言いません。

 

「こういう考え方もあるんだ」と読者の視野を広げるための記事をこのブログに投稿していきたいですし、コメントしてくれる方と積極的にやり取りをして今日のSNSで失われてしまった議論の場としてもこのブログを運営していきたいと思っています。

 

どうぞご遠慮なく思ったことをコメントして頂ければと。

 

ですが、一つ注意点として感情的な考え方をある程度抑えておかないと、

「お前の言葉使いが気に入らない!」のような記事の内容とは全く関係のない中傷まがいのコメントや「それは違う気がする」のような根拠の伴っていない批判がコメント欄に飽和し、健全な議論の場は一生作られません。

 

ここは、罵詈雑言の許されたSNSではないので、コメントする方も常識的な責任感を持つよう心がけて頂きたく存じます。

 

まあ、そんな仰々しいことを言いつつも、私は好意的な人に対して非常にウェルカムなので、記事に対する質問や感想はドシドシ書いて頂ければ、できる限り返信したいと思っています。

 

これからどうぞよろしくお願いします。

 

新人。より